未来というのは100年後、1000年後に一気に来るわけではありません。
SFの中で語られるような「未来」は実は、毎日のように現れていたりします。
本コラムは、書評家の永田希さんによる、そんなリアルタイムな「未来」の月間まとめレビューです。
ノーベル化学賞を今回受賞したのはゲノム編集に必要な技術を開発したチームでした。彼女たちが発表した技術によってゲノム編集は飛躍的に進歩することになりました。マラリアを媒介する蚊がいる地域にゲノムを編集した個体を放すことで、その地域の蚊を人工的に絶滅させることも可能になりました。環境への介入について、生態系がどのような影響を被るのか予測ができないとして危険視する声も出ています。
本稿ではゲノム編集によって自然環境を人工的に改変したり、人工生命体を作り出す方向の未来ではなく、もうひとつの新技術であるDNAコンピューターが可能にする未来について考えてみます。
コンピューターの世界には今から半世紀前の1960年代に提唱された、いわゆるムーアの法則というものがあります。コンピューターの心臓部である集積回路の計算速度が「18ヶ月(1年半)で2倍になる」という法則です。この法則は驚くべきことにこの半世紀間、ほぼ妥当性が証明されてきました。
しかし現在、コンピューターの計算速度の向上は過去半世紀の勢いを失ってきています。ムーアの法則が限界に到達したと言われる所以です。
ムーアが想定していた集積回路はこの半世紀でどんどん緻密化しており、これ以上の高速化のためには原子レベルの理論的に根本的な新発見が必要だと言われています。
ムーアの法則が限界にきていることから、量子コンピューターのような新しいコンピューターのアイデアに注目が集まっています。今回、本稿で検討するのは量子コンピューターと並んで新しいコンピューターの可能性として注目されているDNAコンピューターが普及する未来です。
結論を先取りしてしまえば、DNAコンピューターが実現しムーアの法則の限界が超克される未来には様々な事故を事前に回避するサービスが普及し、人々の「危険」に対する意識がかつてなく変化することが予想されます。そのような世界には、新しい「事故学」が生まれるのではないでしょうか。
クリスパー・キャス9とDNAコンピューター
2020年のノーベル賞の化学部門を授与されたのは、フランスとアメリカのエマニュエル・シャルパンティ氏とジェニファー・ダウドナ氏でした。彼女たちは、動物や植物、微生物のDNAを正確に改変する「クリスパー・キャス9」を開発し、ノーベル賞はこの功績を評価したものです。
この「クリスパー・キャス9」によって、いわゆるゲノム編集の技術は飛躍的に進歩することになります。この技術は安価で、しかも精確、そして実験のサイクルを劇的に短縮しました。筋肉量を増加されたウシやブタ、収穫量を増加されたイネなど農畜産物の改良、遺伝子治療や再生医療への応用など、現在も研究が進められています。
クリスパー・キャス9と直接には無関係な技術ですが、遺伝子に関するもうひとつの新技術がDNAコンピューターです。これは半導体を使って計算する現行のシリコンコンピューターとは根本的に異なった理論に基づくコンピューターで、DNAを構成する四つの分子(アデニン、グアニン、シトシン、チミン)を使って試験管のなかで計算を行うというものです。このDNAコンピューターは理論上、現在の標準的なスーパーコンピューターを凌ぐ計算速度に到達すると考えられています。
現在世界最速のスーパーコンピューター「富嶽」が1秒に処理できる命令は41京5530兆FLOPSであり、DNAコンピューターに期待される処理速度は60兆FLOPS。DNAコンピューターの理想値は「富嶽」には遠く及ばないのですが、それでも標準的なスーパーコンピューターの計算速度は現在50兆FLOPSなので、DNAコンピューターが期待値を実現すれば充分に大きなインパクトがあります。
タンパク質コンピュータとインターネットオブライフ
クリスパー・キャス9がDNAの編集を容易かつ精確にしたことにより、DNAコンピューター技術も加速的に進歩することが期待されます。現状、シリコンコンピューターに代わるテクノロジーとしてではなく、医療などで活用されるナノサイズの「機械」への応用がもっぱら研究されているようです。
しかし本稿では敢えて、シリコンコンピューターに代わる技術としてDNAコンピューター技術が普及する未来について考えてみたいと思います。シリコンコンピューターが文字通り利用しているシリコンの原料となる石英が天然資源として枯渇しかけており、シリコンではなくタンパク質分子を使うDNAコンピューターにとって代わられる可能性があるからです。
バクテリアや大腸菌のDNAを編集してバクテリアコンピューターや大腸菌CPUを作るだけではなく、合成生物学の世界では1から細菌を「フルスクラッチ」で合成する技術も開発されつつあります。DNAコンピューターが普及した未来のデータセンターには、シリコンコンピューターではなく、タンパク質コンピューターが並んでいるのかも知れません。
DNAコンピューターによるデータセンターが一般化し、現在IoTの実現のために推進されている各種デバイスに搭載されているCPUもDNSコンピューターに置き換えられた世界。そこではインターネットは生物(life)を相互に接続しているでしょう。IoTではなく、IoLです。
シリコンコンピューターよりも高速なDNAコンピューターが普及することにより、IoLの世界はIoTで想定されているよりも遥かに「自然」な世界になっているでしょう。なにしろシリコン製のチップを埋め込まれたデバイスとは異なり、コンピューター化したDNAを搭載した細胞は自己複製が可能であり、iPhoneやApple Watch、Oculusの各製品のようにデバイスを「着脱する」感覚すら不要になるからです。
思弁的事故学
ところで、現在の世界には「交通事故学」という学問領域が存在しています。あらゆるテクノロジーは、自動車による交通事故、飛行機による航空機事故、原子力発電によるメルトダウンにいたるまで、事故がつきものです。交通事故学は、頻発する交通事故を調査分析することで対策を検討する学問です。交通事故はいまだに世界の死因トップテンにランクインしており、撲滅されていません。
現在、化石燃料からの脱却という目標ともあいまって普及が進められている電気自動車(EV)は、AIによる自動運転技術の是非が議論されています。IoTの発達によって交通事情が最適化され、AIが自動制御するようになった場合、交通事故は理論的にはゼロになると考えられます。
交通事故がゼロになれば、当然ながら交通事故学のような学問は不要になるはずです。調査分析する対象となる事故じたいが激減するからです。
DNAコンピューターが普及している世界では、道路を走っている自動車だけではなく、道を歩いている人間の方にもデバイスが内蔵されており、生態情報がリアルタイムで監視されるようになっています。人間側のデバイスは遺伝子レベルで組み込まれているため、人間の側はデバイスを内蔵している自覚すらないでしょう。
IoLの世界では、もはや交通事故などまったく考えられないようになるはずです。道路を横断する際に道路の左右を確認する必要はなく、自動車に乗っている人は飛び出しを警戒する必要もありません。単に「自然」に過ごしていればいいのです。
交通事故がゼロになるIoLの時代、自動車以外のあらゆる危険も事前に回避されるようになります。戦争を知らない世代がかつて「平和ボケ」と呼ばれましたが、「事故を知らない」世代は「安全ボケ」とでもいうべき状態になることが予想されます。このような世界では「ありえないこと」を想像できる能力が希少価値を持つことになるでしょう。
あらゆる危険が事前に防止される世界、誰もが安全を当たり前に暮らしている社会で、超高速コンピューター群が想定できない危険を想像できるということ。その想像力を鍛える体系が新しい事故学として発達するのではないでしょうか。いわば思弁的事故学の誕生です。
思弁的事故学は、日常生活にはまったく役立ちません。通常の人々の暮らしのスケールに発生しうる事故はIoLが回避するからです。思弁的事故学は、IoLが何をどのように回避しているか(つまり通常の事故学の範疇)を学び、更にコンピューターが計算しうる事態を超越した事故、いわば超事故を想像する体系になるでしょう。
IoLによって誰もが安全に暮らせるようになった世界では、このような体系を研究し身につける必要性は希薄になります。したがって、思弁的事故学は適性のある一部のエリートだけのものになるでしょう。学問を維持するのに十分な人数は、何十億という人口のなかのごく一部です。総人口の0.0001から0.001%でも多過ぎるくらいでしょうか。倍率にして数万から数十万倍という驚異的な「狭き門」ということになります。
安全ボケに甘んじるしかなくなった数十億の同胞の暮らしに万が一、億が一にも起こり得ない「事故」が発生しないように、人知れず思考法と知識を共有し語り継ぎ、思弁を重ねる者たち。それが思弁的事故学者の姿です。
永田希
書評家/時間銀行書店店主。
週刊金曜日書評委員。
『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)を2020年4月刊行。
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