市民データサイエンスと宗教の怪【今月分の未来さん・2020年11月分】

未来というのは100年後、1000年後に一気に来るわけではありません。
SFの中で語られるような「未来」は実は、毎日のように現れていたりします。
本コラムは、書評家の永田希さんによる、そんなリアルタイムな「未来」の月間まとめレビューです。

センサーデバイスの普及

21世紀になってから世界中でスマートフォンが急速に普及しました。日本でスマートフォン普及の口火を切ったのは2008年のソフトバンクです。それから10年余りが経過し、今ではスマートフォンを持たない人は少数派です。

携帯電話の高機能版として普及してきたため、スマートフォンはある種の電話だと思われがちですが、実際のところは電話もできる超小型パソコンです。インターネットに接続し、さまざまな情報を処理することができる端末、それがスマートフォンなのです。目覚まし時計の代わりにしたり、カメラ機能で写真や動画を撮影したり、日々のニュースをチェックしたり、ウェブを検索したり、SNSに写真や動画を投稿したり、万歩計になったり、懐中電灯になったりと、電話以外の機能を挙げ始めるとキリがないほどです。

携帯性に優れてきわめて便利なスマートフォンは、たとえば写真を撮りたいときに手元になければシャッターチャンスを逃してしまうし、気になった言葉を忘れないうちに検索したいし、ふいに「降りてくる」面白い思いつきや共感を集められそうなセンテンスをすぐにSNSに投稿するために、基本的にいつも肌身離さず持ち歩きます。最近、その危険性が指摘されることの増えた、いわゆる「歩きスマホ」やスマホのディスプレイを長時間見続けたための「スマホ老眼」などは、現代人がスマートフォンを常時使用していることを物語っています。

また、スマートフォンについている万歩計機能や、睡眠サイクルや睡眠の質のモニタリング、さらにはフィットネス支援や家計簿の機能などを用いて、スマートフォンで健康管理をするという利用法も普及しています。これは、スマートフォンが電話やSNSのような誰か他のヒトとのコミュニケーションに使われるだけのものではなく、振動や移動を検知し、そのデータを位置情報や日付情報とセットにして格納したり集計できるデバイスだということを意味します。

市民データサイエンス

スマートフォン以外にも、富裕層向けに行き渡りつつあるApple Watchなどのウェアラブルデバイス、冷蔵庫や体重計、エアコンなどの家電製品や健康管理機械あるいは自動車のIoT化など、ユーザーがなんらかの形でデータを取得される機会は加速度的に増加しています。これはユーザーの生活そのものが、さまざまなデジタルデバイスによってデータ化されていくということです。住宅から公共交通機関、就労環境、さらには医療や公共サービスまで網羅的にデジタル化したスマートシティの実験が現在、各地で行われており、そこで生活する人々が、自分たちのデータが収集解析されることに無自覚になる未来も容易に想像できます。

もちろん生活者が自分自身のデータ(生活データ)を自分で分析し、自分の生活に役立てていけないはずはありません。健康管理やフィットネス、家計管理などは自分の生活データの自己管理の代表的なものです。いまはまだそれほど複雑なサービスが登場していませんが、ゆくゆくは様々なデータを複雑に組み合わせるサービスが登場してくることも想像されます。現在でも、スマートフォンのさまざまな機能の利用法、活用法についてはおびただしい数の「ハウツー」を紹介するページをオンラインで見つけることができます。今後、サービスが複雑化するにつれて、ますますハウツー系のページの重要性は増すでしょう。

サービスの利用に関して困っているユーザーに対して、サービスの利用に長けたユーザーが知見を共有するということは、ウェブページの文章だけで行われるものではありません。YouTubeの動画や、InstagramやTwitterのようなSNSでも、わかりやすい解説を提供する有識者は人気を集めています。このように、ユーザーが自分でデータを分析して利用していくことを指して「市民データサイエンス」と呼びます。

自社の提供するサービスをよりよくユーザーに利用してもらうために、サービスを提供している企業は、初心者ユーザーを導く有識者たちを歓迎し支援すると考えられます。それだけでなく、知識の円滑な浸透のために、ユーザーたちを組織化し、互いに切磋琢磨することを推奨することになるでしょう。

新しい宗教?

このようなユーザー間での知識の補完という動きについては、これまでは『暮しの手帖』のような消費者主体のメディアが生活に関する知識を収集し、かつまた拡散させてきました。『暮しの手帖』的な位置づけとしては、料理のレシピを収集し共有拡散するクックパッドが現在の例としてわかりやすいかもしれません。またソフトウェア開発者のあいだでは知識を共有して互いのスキルを高め合うというコミュニティを形成することはもはや文化といっていい状態です。今後、一般消費者の間でも、プログラマーのコミュニティのように自分たちのデータをどう活用するか、そのスキルを共有するコミュニティがあらわれてくることが考えられます。

ところで、ヒトの生活スタイルはある種の思想性と非常に結びつきやすいものです。禅宗の僧が獣食やニンニクを忌避して精進料理の文化を生み出したり、決まった時間に起床、礼拝、就寝をするようなことです。同様の食の禁忌、生活習慣の定型化は仏教に限らずイスラム教やユダヤ教、キリスト教の各宗派(修道院がわかりやすい)にも認められることです。これは宗教ではありませんが、自堕落な退廃性を称揚しているかのようなパンクムーブメントにも、行き過ぎた暴飲暴食を自戒するかのようにノンアルコール、禁煙、ノードラッグ、ノーセックスという禁欲的な「ストレートエッジ」という一群が発生しています。

それはさておき、ここで注目したいのは、生活習慣と思想性が結びつきやすいということです。マクロビオティックやアーユルヴェーダなど、あからさまに宗教的な思想性を表に出していなくとも、実践するにあたって生活スタイルを根本から見直すことを推奨するものは現在でも少なくありません。

かつて哲学は神学の婢女と言われていました。神学とはキリスト教の教理を深く追究する学問で、哲学とはその道具を用意するだけ、いわばひとつ下の学問に過ぎないということです。現在「哲学」と言われているもののイメージはいわゆる人文科学の一分野ですが、その発祥と言われるギリシャでは自然哲学という、現在の自然科学に繋がる分野も生み出しています。かつては、最上段に神学があり、その下に哲学と科学があったと言えるでしょう(もちろんこれは西洋のごく一時期に限った構図です)。

現在、合理性を求める近代化が世界を襲い、各地で宗教は権威を失ったと考えられてきました。これを社会学の用語で「脱儀式化」「脱呪術化(脱魔術化)」といいます。しかし昨今の社会学の研究では、先進国の一部を除いて、あるいは先進国ですら、宗教の権威は失墜していないと考えられるようになってきました。

社会学の用語で、宗教の権威の失墜は「世俗化」あるいは「脱聖化」と言われます。そして20世紀後半にヒッピームーブメントと連動して発生したニューエイジ運動などは、宗教性の復活の兆しだと思われたりもしました。これを指して「再魔術化」と言ったりもします。「再魔術化」は、ファストフードやテーマパークでの従業員教育において、働き方をライフスタイルに強く結びつける方法にも適用されるのですが、その話はいまはいったん横に置きます。

実際のところ、宗教の権威は地域によっては確固として保持されています。そのような地域ではここまで書いてきたような市民データサイエンスはその地域の宗教の慣習に組み込まれることになるでしょう。イスラム圏で豚が不浄とされ、ヒンズー教圏では牛が聖別されているために、それぞれ食べられないように、それぞれの地域によって、「サイエンス」も独特の形成のされ方をするはずです。

また近代化によって「脱魔術化」された地域、たとえば日本の都市部などでは、「宗教、哲学、科学」の三層のうち、空隙になっている「宗教」の位置を何か新しい「宗教的なもの」が埋めることを願い求める人々が現れるようになるでしょう。これまでもそのような「ニーズ」は存在しており、それがさまざまな新興宗教、新新興宗教を生み出してきました。

宗教の強力なところは、それを信じる者たちに「生きる目的」を与えることができる点です。暮らしていくのがつらいほどの苦境にあるヒトが宗教を信じることで心理的に救われるということがあります。しかし、そういった個々人の救済の次元を離れ、世界史的な規模の視野で考えると、かつて植民地の拡大を続けていた西洋諸国は、その尖兵としてキリスト教を布教する宣教師たちの組織を利用しました。個々人の心理的な救済を、ある意味で武器にして、政治的、経済的に支配する領域を広げていったという側面を植民地主義は持っています。

ひるがえって、市民データサイエンスを考えるとき、潤沢に得られるようになったデータ群を「何のために活用するのか」ということ。これを明確にする必要があります。ひとくちに「よりよい生」と言っても、神の戦士として悪魔の軍勢を滅ぼすために戦うのか、より多い貯金を子孫に残すために働くのか、一族を絶やさないために子宝を授かることを目指すのか、ライバル会社や同期入社の社員たちに差をつけたいと思うのかで、日々のデータの使い方は変わってくるのです。

異なる宗教を信じる集団が隣接すると、宗教対立が生まれると思われがちです。しかしもっとも恐ろしいのは、自分ひとりが信じている何かが、周囲の人々にとってなんら信じるに値しないような状態です。たとえばある種のデータサイエンスを信じている人がいると仮定します。データサイエンスのある流儀を信じている誰かが、何らかの理由でほかの流儀を信じている集団のなかで暮らすことになったとしたら。

それは豚を食べることがきわめて汚いことだと考える集団の出身者が、他の人がみな豚を食べている集団の中で暮らすようなものです。あるいは、女性の顔を公衆に晒すことが破廉恥だと思われるような集団で育った人が、男女問わず平気で顔を晒す社会で暮らすようなものです。これは現在の宗教の例ですが、データサイエンスの流儀の違いとしては、似たような統計データを前にして、それの解析方法の違いや、どの統計を採用するかで世界観や人生観が変わってくるということです。

これは、つい最近のことで言えば2020年のアメリカ大統領選挙でどちらの陣営の主張を信じるかという話に似ています。それぞれの陣営が自陣営に有利なデータやグラフを提示しました。あきらかな捏造やジョーク的な情報を信じてしまう人の姿に鼻白んだ人も少なくないのではないでしょうか。より身近な例としては、新型コロナウィルスに関するものです。日々発表される感染者の数や重症者や死者の数をどう捉えるか、またマスクや手の消毒の有効性をどう考えるか、日本ではいわゆる右に倣えが一般化していますが、それに反発するひともいます。新型コロナウィルスは単なるインフルエンザで、要は風邪の一種だという説もあります。まさに何を信じるか、どのようにデータを読み解くかという局面にあると言えるでしょう。少し前の例としては、東日本大震災で流出した放射性物質の危険性についても、データをどのように収集し、どう読み解くかということは、ある種の信仰に似た様相を呈し、少なからぬ人々が、自分とは異なるデータを信じている「他者」の姿を目にしたのではないでしょうか。

本稿で描きたいのは、センサーデバイスの一層の充実と、その活用方法を普及させるサービスが一層充実することによって、これまでになくより体系的な「データサイエンス」が可能になるという未来です。その未来には、データサイエンスの流儀が複数あらわれ、異なる流儀のあいだでは互いに信じられないようなグロテスクで愚かしい行為が熱狂的に支持され、生活に組み込まれているように見えるだろうということです。

永田希
書評家/時間銀行書店店主。
週刊金曜日書評委員。
『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)を2020年4月刊行。

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