未来というのは100年後、1000年後に一気に来るわけではありません。
SFの中で語られるような「未来」は実は、毎日のように現れていたりします。
本コラムは、書評家の永田希さんによる、そんなリアルタイムな「未来」の月間まとめレビューです。
今年2020年は、予定通りであれば東京でオリンピックが開催されるはずでした。「中止だ中止!」という意見もあるオリンピック、来年以降どうなっていくのかを今回は考えてみたいと思います。と言っても、妥当な開催方針を単に検討するだけではつまらない。筆者はおそらく典型的な運動嫌いですので、そんな私でも楽しめる「オルタナオリンピック」略して「オルタリンピック」を考えてみました。
そもそも、2020年に東京で開催されるはずだったオリンピックは、いわゆる近代オリンピックというものです。1896年に第1回が開催され、以降、世界各地で開催されてきた近代オリンピックは、紀元前にギリシャのオリンピア地方で開催されていた「オリンピアの祭典」に着想を得たものです。
オリンピアの祭典には現在のオリンピックのような体育競技だけではなく、詩の朗読による競技も行われていました。近代オリンピックも、その提唱者クーベルタンが画家の家庭に育ったこともあり各種芸術を競う「芸術競技」が含まれていました。日本の相撲のように、元来「神を讃える」ものであったオリンピックに、芸術競技が含まれていたのは当然といえば当然です。
ところで「健全な精神は健全な肉体に宿る」という有名な一節があります。これは、日本語では「健全な肉体に健全な精神が宿る」と広く誤解されていますが、最初にこのフレーズを唱えた人物は「風刺詩人」でした。つまり、健全な肉体に健全な精神が宿りにくいことを嘆き、肉体だけ、あるいは精神だけが「健全」である人たちを風刺する意図を伴っていました。これは精神的な美を追究する芸術を競技種目として外してしまった現在の近代オリンピックにこそ向けられるものでしょう。
つまり来るべきオルタリンピックにおいては、失われた芸術競技を復活させること、少なくともその芸術性と精神性を取り戻す必要があるのです。
オルタリンピック競技種目案
まず真っ先に思い浮かぶのは、現在人気が高まり注目を集めているeSportsです。コンピューターゲームのプレイをスポーツとして捉えるeSportsですが、eSportsで競うべき競技種目が複数あるために「eSports」として種目を追加するのは不可能かもしれません。
しかしコンピューターゲームにはシューティングゲームやシミュレーションゲームなどいくつかのジャンルがあり、またそれぞれのゲームタイトルは企業やアマチュアが日々開発しているため、いくつかのメタゲームを作ってそのなかでプレイヤーたちが競うことはできるのではないでしょうか。その場合には、いわゆるプレイヤーだけではなく彼らの使うマシーンを整備するチームも出場者として活躍することになるでしょう。自動車レースのF-1のように営利企業がチームを持ち、ツールやマシンの開発と運用によって自社の技術力をアピールする場としてオルタリンピックを活用するようになると思われます。
また将棋やチェスのようないわゆるアナログゲームもオルタリンピックの競技種目に含まれます。ゲーム自体がアナログでも、プレイヤーはAIといわゆる生身の人間のハイブリッドになるはずです。人間とAIがチェスや将棋で戦うと、人間はもはやAIには勝てないからです。AIは、これまで人間が作ってきた各ゲームの伝統を無視して、人間では思い付けなかったような手を選んできます。それを人間がどう判断するか、これが勝負どころになるはずです。
また、従来の競技も機械を使って激化することが考えられます。現在も乗馬やアーチェリー、砲丸投げや体操など、人間が裸一貫で勝負しているわけではありません。もっともこの点では、古代のオリンピア祭典の場合は、不正を防止するために全員が全裸で参加していたのですが。現在ではスポーツウェアなども各ブランドが技術力をアピールする要素になっています。徒競走に車輪やジェットエンジンを持ち込んで何が悪いのでしょうか。
機械が導入することで戦闘機によるドッグファイトなどの種目の追加も考えられます。他方、人体と人体が戦う格闘技種目にミサイルや刃物など殺傷力のあるモノを持ち込むと血生臭くなってしまいます。人体破壊ショーになると特殊な趣味の人以外はつらいだけなので、防具が発達するかもしれません。あるいは脳に直接電極を設置する侵襲式ブレインマシーンインターフェースによって戦術の検討や判断の速度を強化し、また精神面も各種アルゴリズムによって安定化したファイターが登場するかもしれません。
演出の未来と反オルタリンピック主義
近代オリンピックは古代のオリンピア祭典と同様に、国同士が競うものです。古代ギリシャは、ギリシャ地方に無数のポリスと呼ばれる小国家が散在しており、オリンピア祭典が開催される間はそれらのポリスどうしの戦争は禁止されていました。近代オリンピックには戦争を止めるちからはありません。オルタリンピックは、戦争以上の説得力を持って競い合う、いや戦争の「代わり」に開催されると理想的です。
かつて『国民クイズ』という、議会制民主主義よりもテレビのクイズ番組が支持される世界を描いたマンガ作品がありました。オルタリンピックはそのスポーツ版を目指すと考えると分かりやすいでしょう。知能、知略、技術、体力、精神性、芸術性、あらゆる項目で公式な優劣が競われる世界。人々は優秀なプレイヤーや、素晴らしい製品を開発するチーム(企業)に憧れ、またそこに参加することを目指すでしょう。現在でも野球やサッカーの選手になることを子供が目指すように。
かつては文学や美術、学問も国威発揚のためだと考えられていました。オルタリンピックには芸術競技種目があるので、各企業のメセナや大学など研究機関も産学官連携して競技に知を動員します。
ラジオやテレビ、パソコンモニターのような20世紀的なメディアを活用して人々を興奮させた近代オリンピックに対して、オルタリンピックは仮想現実(VR)と拡張現実(AR)を組み合わせた複合現実(MR)によって鑑賞者を楽しませます。国威発揚という崇高な目的があり、また企業も自社の認知を拡大し印象を良くしたいので、鑑賞体験の向上にも全力で技術力を注入することになります。
近代オリンピックは、開催国を代表する芸術家が威信を懸けて芸術監督となり、開会式などの演出を行います。オルタリンピックには芸術競技種目があるため、前回の金メダリストから芸術監督が選ばれます。オルタリンピックの演出はMRによるプロパガンダの側面があるため、芸術監督の演出がどのように各国の鑑賞者にプレゼンテーションされるかは、各国がどのような企業群にマスメディア戦略を任せるかにかかわってきます。
その戦略性が低級な国や、国民に貧弱なメディア体験しか提供できない企業しかない場合には、国民の支持を得ることができなくなります。国民の支持を得られない国は優秀な選手に捨てられます。より魅力的な演出をする国へと選手や選手予備軍たる子供たちが流出してしまいます。オルタリンピックは戦争の代わりなので、弱者ばかりで負けてばかりの国は、かつての日本のように不平等条約を結ばされ、強い選手たちを擁する大国の植民地として主権を喪失していくでしょう。
こうなると、資本主義国に対して共産主義国があったように、反オルタリンピック主義の国が現れる可能性もあります。反体制組織として共産主義革命を目指した共産党のように、ルールに基づく「公正な」競技で優劣を決めるオルタリンピック主義を否定し、健全な肉体でも健全な精神でもないものに基づく理想社会を目指す人たちです。
戦争を克服し、国家レベルの応援とプロパガンダによって統一された国民からの歓声に鼓舞され、多国籍企業の巨大資本による技術的バックアップを受けた競技者たちの健全な肉体と健全な精神に、反オルタリンピック主義者たちはどのように戦いを挑むのでしょうか。それはもう正々堂々の真逆をいく、人倫を超越した卑劣外道な戦い方になるでしょう。彼ら反オルタリンピック主義者には、健全な肉体も健全な精神もなく、お金も技術もなく、国民からの支持もないからです。その戦いはプロパガンダに反するノイズとなるため、メディアからは無視されるでしょう。反オルタリンピック主義者たちの戦いは人々に知られることなく、秘密裏に処理されるのです。
あるいは、現実の現代社会で想像することが難しくなっている「悪役」として、反オルタリンピック主義国が扱われるようになるのかもしれません。現代のコンテンツ産業でナチスドイツとりわけヒトラーや、共産主義国が悪の権化として描かれているように、反オルタリンピック主義国は格好の悪役として扱われ、反オルタリンピック主義国との戦いは聖戦として演出されるようになるでしょう。
健全な肉体に宿る「健全な精神」とは、オルタリンピック主義に奉仕し、反オルタリンピック主義との戦いを疑わずに推進する精神を指すのかもしれません。
永田希
書評家/時間銀行書店店主。
週刊金曜日書評委員。
『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)を2020年4月刊行。
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